建築インプロヴィゼーション

私の中にある「即興性」が、私の「建築」に浸透するその日まで、ひたすら基礎練を積むブログです。

思い出してみる。

私が小学生の頃、冬休みの宿題で、自分で好きな言葉を、書初めで書いてくる、というものがあった。

 

他のみんなは、「初日の出」だとか、「お年玉」などを書いてきたわけだが、私は、「毎日充実」という、書初めというものに何だか馴染まないものを書いた。

 

私なりの所信表明なんだったと思う。確かにその頃は、毎日が充実していた。辛いこと、というものが無く、何もかもが楽しく感じていたと思う。この書初めを書いた時、まだ幼い頭ながら「今の楽しさを、一生続けてやる」という、ある種の決意を心に抱いていた気がする。確かにそれは、「決意」だった。「楽しいことばかり降り掛かってくればいいな。」という他人任せの願いではなく、「自分の力で、楽しい人生を切り開いてやる。」という、一種の「決意」があったのである。

 

「楽しい」人生とは何か。毎日遊び呆ける「遊び人」になることか。それとも、毎日一生懸命働いて、勉強して、内閣総理大臣にまで登り詰めることか。

 

どっちもその人が楽しいと思えば、それは楽しい人生なのだろう。それは人それぞれだと思う。

 

ただ、私の場合はと言うと、「人生の全局面を、味わい尽くす」ということに尽きる、と思うのである。

 

言い換えれば、「何かを楽しむために、他の何かを犠牲にしない」ということかもしれない。

 

この広い世界、全てのものを見たり、全てのことを経験するなんて、到底無理なことである。手持ちの世界で、精一杯生きる、その中で、楽しく生き切る。…そう言ってしまえば、実に多くの人が、楽しい人生を生き切っていると言えてしまうかもしれないけれど…。

 

私は今、変革期にいる。建築の世界を広く見てきて、そして一つの設計事務所に腰を落ち着け、自分のこれから先の人生が見通せそうな状況にいるのだ。

 

一般的に言う、「子供」から「大人」になる、という分水嶺にいるのだと思う。その中で、自分の行動パターンをよく観察すると、今までに無いものがちらほらと見え隠れするようになってきているのである。

 

私は、「常識」というものを、別に無視はしない。他人との中で軋轢無く生きていくために、「常識」だとか「ルール」だとかを、みんなが身に付けるべきだということは、十分理解している。ただ、そういうものを作り上げてきた「上」の世界を、今までずっと「下」から見上げてきた自分が、その「上」の世界に入らんとしている今、その「上」の世界での「常識」的な行動が、私の行動に少しずつ現れ始めてきているのである。

 

これが、いいことなのか、悪いことなのか。「上」の世界からすれば、「いい」ことに決まっている。だが、「下」の世界からすれば、「悪い」ことな気がする。

 

果たして、それでいいのか。

 

果たしてそれが、私が小学生の頃に決意した、「充実した人生」を送り切る、ということに、繋がっていくのか。

 

 

きっと、…違う!

 

 

 

別に、「非常識」な野郎になりたいわけではない。私だって、「常識」的な、分別のある大人になりたい。ただ、今までずっと疑問符を掲げてきた世の中の価値観を、私が受け入れてしまうことに、少なからず危機感を感じているのだ。…と言うと、世の青春ソングにありがちな世界観に陥っているような気がするが…。

 

 

 

私は、充実した人生を、送りたいのである。そのために、今までの充実していた人生も、これからの、やはり充実しているであろう人生も、無駄にはしたくないのである。

 

 

 

つまらないなら、面白くしてやろうぞ、この人生を。

 

 

(終わり)